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目 次

I. 「中間報告」に至る経過 総合科学技術会議と有識者会議の見解
1. 自民党 PT の提言
2. 学術会議の対応
3. 内閣府の法改正案
4. 有識者懇談会

II. 「中間報告」と大臣決定の問題点
1. 未成熟な文書
2. 学術会議の現状の評価についての問題点
3. 法人化の根拠についての問題点
4. 法人化のはらむ問題点
5. 法人化を既定の前提とすることのない議論の継続を
6. 科学に対する政府の態度もまた問われている

2024 年 1 月 22 日
大学の危機をのりこえ、明日を拓くフォーラム(大学フォーラム)運営委員会

 内閣府のもとに設置された日本学術会議の在り方に関する有識者懇談会は、2023年12月21日に開催された第10回会議において、日本学術会議の組織形態について法人化が望ましいとする判断を盛り込んだ「中間報告」を採択した。同時に、「日本学術会議の法人化に向けて」と題する内閣府特命大臣の決定が公表された。これを受けて学術会議は、22日、会員・連携会員・協力学術研究団体に充てた光石衛会長名の文書を発出し、「最終的に取りまとめられた中間報告及び法人化の方針においては、上記の声明〔注:12月9日付の声明「日本学術会議のより良い役割発揮に向けた基本的考え方―自由な発想を活かした、しなやかな発展のための協議に向けて」〕で掲げた事項を含む懸念点に関して一定の反映がなされ」たが、「今後、これらの懸念が完全に解消される必要がある」、「岸輝雄座長から、声明の趣旨を踏まえ、学術会議が懸念している点を含め、学術会議の意見も聴きながら、制度の詳細について、注意深く検討していただきたいとの発言もあったところであり、日本学術会議としても、声明における懸念点の解消に向け、今後の議論に主体的に参画して」いきたいという態度を表明した。

 学術会議のあり方に関するこの間の議論の経過を注視し、有識者懇談会委員に対する「日本学術会議のあり方についての開かれた議論に資するためのご質問」(2023年9月17日)を含め折りに触れて意見を表明してきた大学フォーラムは、「中間報告」および大臣決定には看過しえない数多くの問題点が含まれていると考え、

 政府に対しては、今の段階で大臣決定にもとづいて立法作業を進めることをさし控えるともに、学術会議のあり方についての建設的な議論の前提となるべき学術会議との信頼関係を毀損する根源となっている6名の会員候補者の内閣総理大臣による任命拒否は誤りであったことを認めること、

 有識者懇談会に対しては、「中間報告」に対する疑問を率直に受け止め、最終報告に向けて審議を継続すること(大学フォーラムは、有識者懇談会の委員に宛てて、別途「『日本学術会議の在り方に関する有識者懇談会』に対する、『中間報告』(2023年12月21日)についての大学フォーラムの批判的意見-委員に対する最初の質問状に対する回答として『中間報告』を読む」と題する文書を提出している)、

 学術会議に対しては、学術会議のあり方についての自らの考えをいっそう積極的・体系的に提起するとともに、協議の場を政府(内閣府)とのあいだのそれに狭く限定することなく、自らが求めてきた「日本の学術体制全般にわたる包括的・抜本的な見直しを行うための開かれた協議の場」を設けるためにイニシャティヴを発揮すること、

 科学者コミュニティ、メディア、および広く社会に対しては、学術会議のあり方をめぐる議論が重大な局面を迎えていることを認識し、議論の動向を注視するととともに、それぞれの立場から声を上げること、

を求めつつ、「中間報告」および大臣決定についての見解を以下のように表明する。

I. 「中間報告」に至る経緯

1.総合科学技術会議と有識者会議の見解

 学術会議の設置形態(より広くは組織形態)をめぐる議論の歴史は長い。2004年の日本学術会議法改正にもとづく現行の組織形態以降の経緯に限ると、この法改正のもとになった総合科学技術会議「日本学術会議の在り方について」の意見(2003年)は、「最終的な理想像としては、国家的な設置根拠と財政基盤の保証を受けた独立の法人とすることが望ましい方向であると考えられる」(傍点は引用者。以下おなじ)としたうえで、「日本学術会議の設置形態の検討に当たっては、我が国社会や科学者コミュニティの状況等に照らして、直ちに法人とすることが適切であるか、なお慎重に検討する必要がある」とし、「当面は国の特別の機関の形態を維持する」とともに必要な法改正を行ない、主体的な改革を進めたうえで、「今回の改革後10年以内に、新たに日本学術会議の在り方を検討するための体制を整備して上記のような評価、検討を客観的に行い、その結果を踏まえ、在り方の検討を行うこととすべきである」と結論づけた。「理念的には、国の行政組織の一部であるよりも、国から独立した法人格を有する組織であることがよりふさわしいのではないか」と判断した理由は、「政策提言を政府に対しても制約なく行いうるなど中立性・独立性を確保したり、諸課題に機動的に対応して柔軟に組織や財政上の運営を行っていくため」だった。学術会議のその後の活動は、少なくとも「中立性・独立性」にかんするかぎり、国の機関であることは障害にはならないことを示した。その顕著な例は、多かれ少なかれ政府に対する批判的な見解を内包した「高レベル放射性廃棄物の処分について」の回答(2012年9月)や「軍事的安全保障研究に関する声明」(2017年3月)である。また、菅首相による6名の会員候補者の任命拒否に至る官邸による人事介入が行なわれるまでは、内閣総理大臣は学術会議の推薦どおりに会員を任命するという実務が40年近くにわたって問題なく定着していた。その意味で、内閣府特命担当大臣のもとに置かれた「日本学術会議の新たな展望を考える有識者会議」の意見書(2015年)が、「国の機関でありつつ法律上独立性が担保されており、かつ、政府に対して勧告を行う権限を有している現在の制度は、日本学術会議に期待される機能に照らして相応しいものであり、これを変える積極的な理由は見出しにくい」と述べたのは自然なことだった。

2.自民党PTの提言

 現在に至る動きの直接の発端は、2020年12月に自民党の「政策決定におけるアカデミアの役割に関する検討プロジェクトチーム(PT)」が菅首相に提出した「日本学術会議の改革に向けた提言」である。自民党PT提言は、学術会議は独立行政法人・特殊法人・公益法人など、法人格をもつ組織形態に変えて「独立した新たな組織として再出発」すべきであるとし、法人化によって「現在、政府の内部組織として存在しているにもかかわらず、政府から独立した存在であろうとすることで生じている矛盾が解消される」とした。「独立した存在であろうとすることで生じている矛盾」とは何を指すのかについての説明はないが、暗に任命拒否を指していた。これは、総合科学技術会議の上記の意見に沿ったものであるかのように見えながら、任命拒否を「独立した存在であろうとすることで生じている矛盾」として描くことによってそれを正当化する一方、法人化するのは独立を保障するためであるかのような、今日に続く転倒した論理を提出するものだった。

 法人化論の背後にあるのは、「デュアルユース研究」を否定しているとされる「軍事的安全保障研究に関する声明」に見られるような、学術会議の“好ましくない”あり方が現われる可能性を取り除く一方、「課題認識、時間軸等」を共有しながら、イノベーションの推進をはじめ、政府や経済界にとって有益な提言を行なう“好ましい”組織へと学術会議を作りかえようとする意図である(同じ2020年の6月には科学技術基本法が改正され、「科学技術の振興」とならべて「イノベーション創出の振興」が法律の目的に加えられていた)。学術会議のあり方をめぐる公式の議論で前面に出されているのは、次に見る内閣府の法案から有識者懇談会の「中間報告」に至るまで後者のような“好ましい”組織へと学術会議を作りかえようとする意図であるが、一部の自民党議員やメディアは、前者のような“好ましくない”あり方が現われる可能性を取り除くという問題意識を公然と表明してきた。

 ただし、学術会議が「デュアルユース研究」を否定している、というのは正確な認識ではない。この批判は、学術会議が「デュアルユース研究」を否定することによって科学の発展を遅らせているかのように描こうとするものである。しかし、「軍事的安全保障研究に関する声明」は「民生的研究と軍事的安全保障研究との区別が容易でないのは確かである。それは科学技術につきまとう問題である」(「軍事的安全保障に関する報告」)という認識を前提としたうえで、「科学者が、自らの研究成果がいかなる目的に使用されるかを全面的に管理することは難しい」がゆえに、研究の自主性・自律性、とくに研究成果の公開性の担保を重視する観点から、「国内外に開かれた自由な研究・教育環境を維持する責任を負う」大学等の研究機関に対し、「軍事的安全保障研究と見なされる可能性のある研究について、その適切性を目的、方法、応用の妥当性の観点から技術的・倫理的に審査する制度を設け」ることを求めたのである。学術会議のこのような問題提起は、経済安全保障という観点が打ち出され、「特定重要技術」の研究開発のための官民協力のメカニズムが「機微な情報」の秘密保護を組み込んだものとなる中で、改めて想起されなければならないものである。だからこそ、学術会議のあり方に対する関心が高まっているのだと推測することができる。

3.学術会議の対応

 学術会議は、任命拒否が行なわれた2020年秋以降、自主改革の方針とともに設置形態についても検討を行ない、2021年4月の総会において日本学術会議のより良い役割発揮に向けて」という文書を採択した。自主改革については、意思の表出と科学的助言機能の強化、対話を通じた情報発信力の強化、会員選考プロセスの透明性の向上などの課題があげられ、会員選考プロセスの透明性の向上については、2023年10月に任命された第26・27期会員の選考においてさっそく具体化された。設置形態については、ナショナルアカデミーが備えるべき要件として、①学術的に国を代表する機関としての地位、②そのための公的資格の付与、③国家財政支出による安定した財政基盤、④活動面での政府からの独立、⑤会員選考における自主性・独立性の5つを示したうえで、これに照らして国の機関として維持する場合と独立行政法人・公益法人・特殊法人など国の機関以外の設置形態とする場合について検討した結果、「現在の国の機関としての形態は、日本学術会議がその役割を果たすのにふさわし いものであり、それを変更する積極的理由を見出すことは困難」と結論した。そのうえで、「ナショナルアカデミーとしての機能をより良く発揮するための最善の設置形態が どのようなものであるのかについて・・・さらに検討を深めていく必要がある」とした。

4.内閣府の法改正案

 一方、国の側では、2021年4月に総合科学技術・イノベーション会議の7名の有識者議員による「政策討議」が開始され、2022年1月に公表されたその「取りまとめ」は、「緊急的課題や中長期的、俯瞰的分野横断的な課題に関する政策立案者等への時宜を得た科学的助言や社会からの要請への対応という観点からは、現在の組織形態が最適なものであるという確証は得られていない」として組織形態についての判断を留保した。

 2022年12月、内閣府は、国の機関という前提を維持したうえで、自民党PTが示した問題意識を盛り込んだ法改正を学術会議に提起した。その特徴は、①学術会議が進めている現行法を前提とした自主改革ではなぜ不十分なのかを説得的に示すことなく法改正に固執する、②透明性の確保を理由に会員選考過程に「外部の目」を入れる必要があることを強調する、③政府等との「問題意識や時間軸」の共有を確保するための新たな制度的仕かけを盛り込む、④3年ないし6年後にはさらなる組織変更(すなわち法人化)がありうることを明示して学術会議に受け入れを迫る、というものだった。学術会議は、内閣府の案は学術会議の独立性を脅かすと批判し、2023年4月、立案中の学術会議法改正案の開会中の国会への提出を「いったん思いとどまり、日本学術会議のあり方を含め、さらに日本の学術体制全般にわたる包括的・抜本的な見直しを行うための開かれた協議の場を設ける」ことを「勧告」という強い形式で政府に求めた。その結果、岸田首相は、内閣府案に沿った法改正案の提出を断念するに至った。しかしこれは、内閣府が想定する次のステップに進むことを意味するものだった。

5.有識者懇談会

 政府は、2023年6月に閣議決定された「経済財政運営と改革の基本方針 2023」に「日本学術会議の見直しについては、これまでの経緯を踏まえ、国から独立した法人とする案等を俎上に載せて議論し、早期に結論を得る」と書き込み、これにもとづいて「日本学術会議の在り方に関する有識者懇談会」を設置した。このことによって、現行法を前提とした改革か何らかの形での法改正かという選択ではなく、現行法を変えることを前提としたうえでの、国の組織という枠内の内閣府案か国から離れた法人化かという選択へと誘導する道が作られた。

 有識者懇談会の会議には、大学関係者、経済界関係者など12名の委員のほか、会長(9月までは梶田隆章前会長、10月からは光石衛新会長)をはじめとする学術会議会員と、総合政策推進室長をはじめとする内閣府の職員が出席した。

 8月29日に始まった審議は、閣議決定によって枠づけられているという意味でも非公開であるという意味でも、学術会議が求めた「日本の学術体制全般にわたる包括的・抜本的な見直しを行うための開かれた協議の場」とは異なるものであったが、発言者の氏名の入った各回の議事録が比較的早期に公表された。

 会議では、まず学術会議の機能・役割についての議論を行ない、次いで組織形態についての議論に進んだ。座長は、「早期に結論を得る」というも見とおしのもとで、法人化する場合の考え方を示すことを内閣府に求め、内閣府は事務局という立場を利用して、「法人化の場合の案」と「令和5年4月政府案(国に残る場合の案)」とを対比させ、委員の意見をまとめるという形をとりながら自らの構想を積極的に提示するという姿勢を意識的に示した(内閣府の案には委員の意見を超えるものが含まれているという指摘に対して「特段問題があるというふうには考えていない」と述べ、議論の取りまとめを牽引したことを自ら認めている)。一方、新しい期が始まり、体制を整えるべき時期に当たっていた学術会議は、法人化がただちに自由を保障するものでは必ずしもないこと、法人化の具体的な中身が明らかにならないと判断できないことをくり返し強調したものの、学術会議のあり方についての自らの考えを積極的・体系的に示すという機会を得ることはできなかった。その結果、法人化のメリットがさまざまに強調される中で、法人化を主張する側が現行法は維持できないことを立証する以上に、学術会議の側が法人化が不都合であることを立証することを求められるという構図が生まれ、学術会議は変化に対してひたすら消極的であるかのような印象が作りだされた。

 議論がこのような方向に向かう中で、12月9日、学術会議の臨時総会が行なわれ、11月9日の第7回会議に提出された「法人化の場合の基本的な考え方」にもとづいて内閣府の説明と質疑応答が行なわれた。これを受けて学術会議は、「日本学術会議のより良い役割発揮に向けた基本的考え方 ―自由な発想を活かした、しなやかな発展のための協議に向けて」と題する声明を同日に発した。そこでは、考慮されるべき具体的な論点・懸念点を示したうえで、「現在の法人化案は、日本学術会議の自主的改革に必要な方策を十分検討・協議したうえで作成されたものということはできない。日本学術会議は、法人化するか、国に存置するかの議論に拘泥することなく、以上の懸念点を解消する方策を含め、自由な発想を活かした、しなやかな発展のために、関係者との継続的な協議を望む」とされた。

 12月21日、有識者懇談会の第10回会議は、ほとんどの委員が法人化が望ましいという見解を表明したのを受けて、その旨を盛り込んだ「中間報告」を座長に一任という形で採択した。同時に、「日本学術会議を国から独立した法人格を有する組織とする」として法人化の骨格を示し、「今後、日本学術会議の意見も聴きながら、内閣府において法制化に向けた具体的な検討を進める」と宣言した「日本学術会議の法人化に向けて」と題する内閣府特命大臣の決定案に了解を与えた。こうして、「中間報告」は大臣決定に反映され、大臣決定は「中間報告」によって裏づけられているという形が作られている。ただし大臣決定は、内閣府の問題意識を強く反映し、とくにガバナンスにかかわる論点について「中間報告」よりも踏み込んだ記述を行なっていることに注意すべきである。この決定案について、有識者懇談会の委員のあいだではほとんど議論が行なわれていない。

II. 「中間報告」と大臣決定の問題点

1.未成熟な文書

 まずはじめに、「中間報告」には、用語の意味、論理、論旨が読み取りにくい箇所が(とくに学術会議の使命や機能について論じた前半部分において)少なくなく、文書として未成熟であることを指摘せざるをえない。

 例えば、「科学」「学術」「科学技術」という概念が用いられている。これらの概念のあいだの関係をどうとらえるかという問題は、科学技術基本法における「科学技術」という用語を「科学・技術」という用語に改めることを求めた2010年の勧告に示されるように学術会議が重視してきた論点であり、学術会議の役割を論じるうえで欠かせないものである。しかし、この文書においては、これらの概念の意味や関係について説明することなく併用するにとどまっている。また、同様に学術会議の役割にかかわる重要な論点のひとつは、science for science(科学のための科学)とscience for society(社会のための科学)というふたつの概念の関係であるが、「中間報告」は、「議論のなかで、科学の目的として Science for Science が重要とする意見もあった」とする一方、「本懇談会では、ブダペスト宣言の掲げる『社会における科学と社会のための科学』をどのように推進するかについて、学術会議がより積極的な役割を果たすべきという意見が多く聞かれた」としており、両者の関係をどのように整理し、学術会議の現状をどう評価しているのか不鮮明な記述となっている。さらに、学術会議が行なう学術的・科学的助言は「総合的・俯瞰的・分野横断的で、中長期的な視点に立って科学技術の将来を見通すものや課題を先取り・発見するものであることが望まれる」という首肯できる指摘がなされている一方、これと「時事的な課題」への取り組みや「さまざまなステークホルダーをはじめとする国民及び社会のニーズ」の汲み上げという要請とはどのようにかかわるのか、という疑問が残る。

 以上に例示したような問題は、学術会議のあり方を語るうえで避けてとおることのできない論点にかかわるものであるが、個々の委員のさまざまな発言がじゅうぶんに整理がなされないままに「中間報告」に取り込まれたものと考えられ、このことが、この文書に対する評価を困難なものとしている。「中間報告」とはいえ、事実上、政府の立法作業に根拠を与える文書となっている以上、指摘しておかざるをえない。

2.学術会議の現状の評価についての問題点

 学術会議の現状や自己改革について「中間報告」は、「一定の努力がなされてはいることは多とするが」、「自主的な改革が行われていることには敬意を表するが」などと抽象的に述べたうえで、全体としてきわめて消極的な評価を与えている。学術会議の改革について論じる文書がその問題点を強調することはある意味で自然なことであるが、あくまでも具体的・客観的な事実にもとづく公正なものでなければならない。この点で特徴的なのは、「中間報告」の最後で、若手アカデミーが取りまとめた2023年7月という直近の文書(「学術フォーラム『2040 年の科学・学術と社会を見据えて取り組むべき10 の課題~イノベーション・越境研究・地域連携・国際連携・人材育成・研究環境~』」)を例示しながら、「学術会議内においても改革への動きが芽生え、根付きはじめたことを歓迎し、さらに大きな潮流となるよう願っている」と述べていることである。「改革への動きが芽生え」たというのはいつのことを指しているのか? 学術会議には2004年の法改正によって現在に連なる仕組みが作られてから、ブダペスト宣言を受けて「科学のための科学」から「社会のための科学」に活動の力点を移し、数多くの提言類を出してきたという歴史がある。近年では、総会で決定した「日本学術会議のよりよい役割発揮のために」(2021年4月)にもとづいて提言類の作成・発信や会員選考のあり方などについての自主改革を進めてきている。「改革への動きが芽生え」ているというさい、これらは念頭に置かれているのだろうか。だが、ここ20年ほどの学術会議の歩みに正面から向き合い、評価を与えるという姿勢が「中間報告」には見られず、若干の提言類のタイトルを注記することで済ますという安直な態度がとられている。

 学術会議の現状に対して消極的な評価を下すさいの基調となっているのは、要約すれば「国民から遠く、国民のためになっていない」という判定である。すなわち、「これまでの活動の成果については、 さまざまなステークホルダーをはじめとする国民及び社会のニーズを必ずしも汲み上げ切れていないとする意見がしばしば聞かれる」ので、これからは「一方的な発信にとどまらず、科学や学術の在り方について、『国民に語りかけ問いかける姿勢』『国民の声に耳を傾ける姿勢』が求められる」。このような姿勢が欠如している一因は、「設立時の学術会議の目的が『国民生活への科学の反映浸透』であった」ことにあり、そもそも「学術会議を『科学者の総意の下に設立された組織』とし、国民及び社会という視点が欠けている現行法の建付けそのものが、国民の支持を基本とする 公的組織の現代的な運営の在り方にそぐわないというような意見も聞かれ」るので、今後は「国民の総意」の下に設立される組織であるべきである、と。

 以上のような主張には、議論すべきいくつもの論点がある。学術会議の活動が「国民及び社会のニーズ必ずしも汲み上げて切れていない」という評価は何を根拠にしているのか(「社会のための科学」を志向してきた提言類のテーマや内容に問題があったというのか)、学術会議の主要な役割である独立した科学的助言と「ステークホルダー」(利害関係者)のニーズとはどのような関係にあるべきなのか、仮に「国民に語りかけ問いかける姿勢」「国民の声に耳を傾ける姿勢」が欠けているとして、それは「法律の建付け」が理由であるとなぜ言えるのか(学術会議はこの法律のもとでも認識を進化させ、科学や科学者を市民に対して一方的に優越的な立場に置くべきではないという視点を提起したり、「中間報告」が強調する科学技術の二面性に注意を喚起したりしてはこなかったか)、「国民の総意」の下に設立されるとは何を意味するのか、それは「科学者の創意」のもとで設立されたということに対立するものなのか(少なくとも、「国民の総意」の下での設立が法律にもとづく設立を意味するのなら、「科学者の創意」を踏まえて設立されたことと矛盾しない。「国民の総意」をより実質的に捉えるのであれば、立法過程はそれにふさわしく幅広い国民を巻き込んだ熟議を踏まえたものでなければならず、4ヵ月ほどの審議を経た有識者懇談会の「中間報告」を受けて大臣のもとで内閣府が法案を作成し、それを国会における短時間の審議で成立させるというような、危惧されるやり方はなじまないはずである。そうでなければ、「国民の総意」は単なるレトリックにすぎないことになろう)。

 ちなみに、「法人化の場合の基本的な考え方」を示した内閣府は、「上から目線だと言われるような国立の学術会議から、国民に近い、国民のための学術会議に今風にモデルチェンジしたらいいのではないかということも基本的な考え方の中で提案させていただいた」と述べている(第6回会議)。ここでは国の機関=「上から目線」、法人=「国民に近い」という対比が端的に示されており、「国民」の強調が法人化論の布石となっていることがわかる。同時に、「国民」の強調は、菅首相が任命拒否を正当化するさいに「国民に理解される存在」であるべきことを繰り返したように、法人化された学術会議に対しても政府がコントールを緩めないことを根拠づける論理的根拠ともなっている。

3.法人化の根拠についての問題点

「中間報告」は、学術会議に「求められる機能にふさわしい組織形態」について、「国とは別の法人格を有する組織になることが望ましい」という結論を与えている。

 この文書は多岐にわたる論点を扱っており、現行制度のもとですでに確認・確立されていると見られること、現行制度のもとでも実現可能なこと、制度的には実現可能だが予算の充実が必要なこと、検討の結果として必要があれば法改正することなく学術会議自身が定める規則の改正によって対応可能なこと、必要があれば現在の設置形態を前提とした法改正によって対応可能なこと、法人化しなければ実現困難とされていること、法人化すれば実現が容易であるとされていること、が混在している。したがって、どのような論点が法人化という結論を導いているのかについては、ていねいな吟味が必要である。

 まず、事実上法人化が不可欠である(または法人化しなければ実現困難である)という主張の前提にあるのは、「独立した立場から政府の方針と一致しない見解も含めて政府等に学術的・科学的助言を行う機能を十分に果たすためには、そもそも政府の機関であることは矛盾を内在していると考えられる」という認識である(原案では、政府の機関であることは「不適切」とされていた。最終的にはやや和らげた表現が採用されたが、論旨に変わりはない)。

 ここで注意すべきなのは、内閣府は2022年12月以降の法改正提案においては学術会議を「国の機関」としていたのに対して、有識者懇談会においてはほぼ一貫して「政府の機関」と呼んでいることである。「国の機関」と「政府の機関」とは同じではない。学術会議が内閣総理大臣の「所轄」のもとに置かれ、行政機構上は内閣府のもとに置かれているため、政府はしばしば学術会議を「行政機関」として描く。しかし、学術会議は一般の行政機関とは異なり、国の「特別の機関」とされていることには触れようとしない(「所轄」とは、主任の大臣―学術会議の場合は内閣総理大臣―との関係がもっとも薄い場合、行政機構図を画いてみればその機関はその府省の中に入ることになるという程度の関係を表わす場合、に用いられる)。さまざまな理由から、程度の差はあれ、政府から独立し政府に対する牽制的機能をはたす組織が国の組織の中に存在することは不思議ではなく、むしろそのような仕組みを備え、それが機能している国家こそが健全な国家である(裁判所については言うまでもないが、行政権の中に位置づけられる内閣法制局や検察庁も、本来そのような機能をはたすべきものである。しかし、安倍政権以来、これらの組織を人事をつうじて官邸に従属させ、本来の機能を発揮することを妨げることが試みられてきた)。科学のもつ独自の役割に着目して「独立して」職務を行なうことが法律上明記されている学術会議は、まさにそのような組織のひとつにほかならない。学術会議の科学的助言は政府に対して拘束力をもつものではなく、政府はそれを念頭に置きながらも自らの責任において自律的に判断を下す。このような自律的主体のあいだには、緊張関係は存在するとしても解消しなければならない「矛盾」は存在しない。学術会議の科学的助言が政府の方針に批判的であることも必要だ―正確に言えば、独立した立場からの科学的助言が結果として政府の方針と一致しないことがありうる―と「中間報告」がくり返し述べていることは、そのこと自体を問題視する見解がある中で正当であるが、国の機関であるがゆえに「政府の方針と一致しない見解」を出すことをためらうことが実際にあるという指摘は見当たらない。むしろ、「軍事的安全保障研究に関する声明」のように、政治家からの激しい批判を招くような見解も表明してきたというのが学術会議の現実の姿である。

「矛盾を内在している」という認識に続いて「中間報告」は、「会員選考の 自律性の観点からも、主要先進国のように学術会議が選考した候補者が手続き上もそのまま会員になる仕組みの方が自然であり望ましい」と述べている。「そのまま」とは内閣総理大臣の任命という手続を経ることなく、ということだろう。しかし、2020年に生じた会員候補者の任命拒否が生じるまでは、内閣総理大臣の任命は形式的なものであるという法解釈のもとで、「学術会議が選考した候補者がそのまま会員になる」という仕組みとして問題なく運用されてきた。問題が生じたのは、安倍政権のもとでひそかに法解釈の変更が準備され、菅政権によって「前例踏襲」の打破の名のもとに理由を示すことなく任命拒否が行なわれたからである。ある委員は、「学術会議の会員選考に政府の介入が行われたことは学術会議の自律性に対する最大の危機」であると正当にも述べたうえで、「政府機関としてとどまる限り、介入は避けられない」と述べている。しかし、この危機から「政府機関としてとどまる限り、介入は避けられない」という結論を導き出すのは妥当だろうか? あくまでも問われなければならないのは危機をもたらした任命拒否の正当性であって、それを法人化の根拠とするのは問題の回避であり、論理の転倒である。83年の法改正のさいの内閣法制局の説明によれば、内閣総理大臣の任命という手続は、特別職国家公務員としての法的地位を獲得するために必要となるところの、推薦制に随伴する「付随的行為」「形式的発令行為」である。このような発令行為がどうしても内閣総理大臣の任命という形をとらなければならないわけではないことは、同じく特別職国家公務員である学士院会員については会員自身によるによる「選定」(つまりコオプテーション)という手続が定められているだけで、内閣総理大臣による任命という手続を経ることなく学士院長が「会員選定状」を授与しているにすぎない、という事実が示している。学術会議の独立性を徹底して重んじ、「抜本的な改革」を厭うべきではないというなら、学士院の例にならうという選択肢も残されている。

 法人化しなければ実現困難とされているもうひとつの問題は、外国人会員である。「中間報告」は、「欧米諸国と比較したとき、我が国は外国人会員がいない稀有な国」となっており、「レピュテーションリスクさえ懸念されるところであり、国際的にも国内的にも支持を失うことにつながりかねないという危機感を持つべきである」として、学術会議からは「外国人を正規の会員にするという諸外国並みのダイバーシティを追求することに伴う弊害についての合理的な説明」がない、と批判している。問題は、そのさい「国の機関である現行制度の下では、外国人を会員に登用することは困難である」という認識が自明の前提となっていることである。

 外国人会員の問題は、かねてから提起されてきた論点のひとつである。学術会議は2016年、在外外国人だけではなく、日本の研究機関で日本人科学者の同僚として日常的に働く外国籍の科学者を会員・連携会員と同様の活動に迎えることをも想定しつつ、「外国人アドバイザー」という制度を設けた。外国人の会員・連携会員ではなく「外国人アドバイザー」という形をとったのは、外国人は国家公務員になれないといういわゆる「当然の法理」の存在を考慮したためだった。しかし、外国人会員を可能とすることを重視するのならば、そのことを法人化を急ぐ根拠とするのではなく、この「当然の法理」そのものを問いなおすことこそが正道である。そのさい、法人化以前の国立大学教員は国家公務員であったが外国人にも開かれていたということが手がかりになる(国立又は公立の大学における外国人教員の任用等に関する特別措置法、1982年)。望まれるのは、学術会議の主な役割は強制力をもたない科学的助言であり、国立大学教員と同様に国家権力の行使には当たらないと考えることはできないかなど、予断をもつことなく検討することである。 

 学術会議は、「日本学術会議のより良い役割発揮に向けて」において、「科学的助言活動の党派的中立性や司法の独立性などに留意することが大前提」であるとしつつ、「行政にとどまらず、立法・司法への科学的助言のあり方について協議するための意見交換の場」を持つ準備を進めると述べている。これについて「中間報告」は、「学術的・科学的助言の対象に立法府も加えること等の是非について、・・・そのような活動が少なくとも国の機関である限りは実際上困難であることは明らかである」としている。しかし、そう断定する根拠は示されていない。

 総じて「中間報告」においては、国の機関であることの限界を示すという意図が先行しており、そこから国の機関を離れることが望ましいという結論を導き出す論理には議論の余地が多く残されている。

4.法人化のはらむ問題点

「中間報告」は、法人化によって「自由度」が高まり、活動の拡大強化とそれを支える財政基盤の多様化や事務局体制の充実についての可能性が広がる一方、「国の組織でなくなることから生じる具体的な制度上のデメリットは、本懇談会としてはこれまでの議論の中で確認されていない」、と述べている。「活動の拡大強化」とされているものの中には、発信力の強化のように組織形態のいかんを問わず実現可能なものや、「一部のメディアから対価を得て継続的に学術的・科学的知見を提供したり、メディアとの間で包括的な連携を目指したりする」というような、独立した科学的助言を行なう組織としての学術会議にふさわしいものかどうか疑問が大きいものが含まれている(後者は、「行政の機関」である場合は行ないにくいとして、法人化の根拠のひとつとされている)。

 問題は、想定されている法人化の構想には本当にデメリットは存在しないのか、ということである。とくに検討する必要性が高いのが、「財政基盤の充実」という問題である。学術会議には資金が不足していることは事実であり、これが発信力の不足など学術会議のこれまでの活動が不十分なものであるとされるさいの背後にある(しばしば忘れられがちな)中心的な事情である。したがって、「財政基盤の充実」という課題が取り上げれられたこと自体には意義がある。問題は、そこからどのような結論を導き出すか、ということである。

「中間報告」は、①政府には、「ナショナル・アカデミーの意義及び性格を踏まえ、学術会議の活動・運営に必要な財政的支援を継続して行うことが求められる」、②しかし、今後必要になる「相応の財源」については、「現下の厳しい財政状況の下でそのすべてを国費に期待することは現実的ではない」、③したがって、財政基盤を多様化し、「少なくとも将来的に一定程度の自主財源を確保することを目指すのは極めて自然」である。④財政基盤を多様化するためには、国の組織であることには制約があり、法人化が望ましい、という論理を展開している。

 ③で新たな財源として想定されているのは、コントラクトにもとづく対価と寄付である。コントラクトについては次のように述べられている。「仮に法人化によって対価を徴収して審議依頼に応じることができるようになる場合、財政基盤の多様化・安定化に資するだけでなく、具体的で真剣味のある意見交換、問題意識や時間軸の確認などを通じた実現可能性の高い学術的・科学的助言が期待できる。」「コントラクトによる仕事は、単なる請負仕事ではなく、相手方からの評価の中で学術会議の能力が問われることを通じて、活動水準のさらなる向上と学術会議の発展に道を開く。」ここから読みとれるのは、学術会議は資金を得るために、対価を提供する用意のあるステークホルダーとの関係強化に努め(コントラクトは「産業界との連携・協働」という項目の中で論じられているので、想定されているのは何よりも産業界であろう)、対価の提供者は提言等の質、ひいては学術会議の能力を評価する。そのさい、「問題意識や時間軸」の共有を踏まえた提言等の「実現可能性」が評価の視点となる、という考え方である。

 学術会議の科学的助言が消極的に評価されるさいにしばしば言及される実現可能性とは、どのような制度的・政策的・財政的前提を設定するかによって変わってくるものであり、共有された「問題意識や時間軸」を前提とするものとは限らないはずである。科学的知見がそれ求めるのであれば、前提となっている制度的・政策的・財政的条件そのものを問うこともありうる。それこそが、諮問機関やシンクタンクとは異なる独立した組織としての学術会議の科学的助言の固有の価値にほかならない。コントラクトが「問題意識や時間軸」の共有と結びついたものであれば(そうなる蓋然性が高い)、科学的助言に枠をはめ、制約するものとなりうるのである。「問題意識や時間軸」の共有は、自民党PTの提言において現われ、内閣府の法改正案において継承された発想であり、その問題性が批判されてきたものであるが、ここでも再現され、しかも対価の徴収と結びつけられている。しかし、「中間報告」自身、「なお、学術会議からは、対価を徴収して審議依頼に応じる場合の依頼者からの独立性、特定の利害からの中立性の確保について、慎重な制度設計を行う必要があるという指摘がなされている。この点は、アカデミーの独立性という観点から極めて重要な問題であり、主要先進国のアカデミーにおいても腐心しているものと推察される」と述べざるをえないように、学術会議の財源として対価の徴収について語るのはあまりに問題が大きい。寄付については、「中間報告」は抽象的な可能性について述べるにとどまっており、未知数である。財政基盤の「多様化」の主張は、その「安定化」を約束するものではないのである。

「中間報告」は、「国による財政的なサポートについても、ナショナル・アカデミーの意義及び性格を踏まえて政府が必要な財政的支援を継続して行うことの重要性を、本懇談会としても改めて確認する」として①の立場を繰り返している。しかし、「中間報告」受けた大臣決定は、「新たな日本学術会議は、活動・運営の活性化、独立性の徹底という観点からも、財政基盤の多様化に努める。/その上で、必要な財政的支援を行う。外部資金獲得の支援に必要な措置も検討する」としているにとどまる。何よりも強調されているのは財政基盤の多様化であり、政府の財政的支援については、増額はおろか、現状程度の水準の確保すら約束されているわけではない。はっきりしているのは、財政基盤の多様化を根拠のひとつとする法人化という結論のみである。

 ここで問われなければならないのは、②の判断である。学術会議の年間予算はわずか10億円弱にすぎず、しかも年々逓減している。半分は内閣府の職員人件費など事務局経費であり、学術会議の実質的な活動に使うことができるのは残りの半分にすぎない。このような貧弱な予算のもとで、会員・連携会員は事実上手弁当で活動しているという実態は徐々に知られるようになっている。有識者懇談会においては「相応の財源」とはどの程度のものかは明らかにされていないが、語られているのは現状の数倍程度という水準である。これより二桁も三桁も多い国の予算が各所で支出されているありさまを見れば、この程度の予算を学術会議に充てることに「国の機関である」こと自体は何らの障害ではないはずである。問われるべきなのは設置形態ではなく、学術会議を公的資金によって財政的に支えるという国の意思があるかどうか、それをどのように形成するか、ということにほかならない。

「中間報告」は、まず資金源の多様化が必要であることを理由のひとつとして法人化を主張したうえで、国費による支援の必要性も認め、そのことを法人に対するさまざまな枠づけの根拠として強調している。具体的には「ガバナンスの強化」である。いわく、「我が国の科学者を内外に代表するという他の団体にはない責務と特権を与えられ、現行法上その経費が国庫の負担とされている組織であることにかんがみれば、活動・運営の透明性の向上や自律的な組織として必要なガバナンス体制の確立が求められることは、財政民主主義の観点からも当然であり、学術会議だけが例外ということにはならない」、と。

 ガバナンスについては、「中間報告」が方向性を示したにとどまる論点について、大臣決定がいっそう踏み込んだ内容を盛り込んでいる。そこでは、国の組織であることを前提として内閣府が構想したような制度を、独立性がいっそう高まるとされているはずの法人化された学術会議に組み入れることが想定されている。会長が任命する外部の有識者からなる「選考助言委員会」、会員・連携会員以外の者が過半数になるように会長が任命する「運営助言委員会」、主務大臣が任命する外部の有識者によって構成される「日本学術会議評価委員会」(いずれも仮称)および主務大臣が任命する「監事」である。確かに、内閣府の法案に盛り込まれていた「選考諮問委員会」が選考そのものについても意見を述べることが想定されていたのとは異なり、「中間報告」では「仮に学術会議を法人化する場合、制度設計においては、政府が選考プロセスに一切関わらないというスタンスが基本的に妥当である」とされている。しかし、大臣決定では「選考助言委員会」について「選考に関する方針等を策定する際にあらかじめ意見を聴くものとする」となっており、選考助言委員会が選考プロセスに一切関わらないという制度的歯止めが明確になっているわけではない。「日本学術会議評価委員会」は、「中期的な計画」が作成されることを前提に、「新たな日本学術会議に求められる機能が適切に発揮されているかという観点から、業務執行、組織及び運営等の総合的な状況について、 中期的な計画の期間ごとに評価を行う。新たな日本学術会議が中期的な計画を策定するに当たっては、その意見を聴くものとする」とされている。「運営助言委員会」は内閣府の法改正案にもなかった組織であり、「予算・決算、中期的な計画その他の運営に関する重要事項(科学的助言の内容等に関することを除く。)について意見を述べる」ものであり、科学的助言の内容等に関することは除かれるとは言え、関与する範囲は十分に広い。注意すべきことは、会長は現行法どおり会員の互選によって定めるとされているものの、幹事会は各部の会員によって互選される部長等によって構成されるのではなく、会長が任命するとされ、監事は「幹事会構成員の業務執行の状況」をも監査するとされていることである。こうして、会長のリーダシップとマネジメントが重視される中で(常勤とすることも検討するとされている)、学術会議の特徴である部(人文・社会科学、生命科学、理学・工学の3部)を単位とするボトムアップの仕組みを廃棄することが想定されているかのようにさえ見える。

「中間報告」は、このようなガバナンスの強化は「当然」のことだとしている。確かに、どのような組織でも予算・決算について決定し、必要があれば計画を立てる。運営について「外部有識者の知見を活用する」ことが不可欠だと考えれば、そのための措置を講ずる。そのことと、これらについて法律で定めることとは別の問題である。法定された仕組みは、具体的な制度設計をつうじて、また計画と評価と国からの資金とが連動するメカニズムをつうじて、政府によるコントールや「ステークホルダー」の意思を浸透させる装置として機能し、「中間報告」もくり返し強調している学術会議の独立性を実際には掘り崩すことになりうるのである。このことは、自由度を高めることを標榜して導入された国立大学法人化の経験がすでに示している。国立大学法人においては、基盤的経費である運営費交付金の削減と評価にもとづく傾斜配分が進められる一方、大学のもつ知的資産を資金に変え、「多様な資金源」によって支えられた経営体というモデル(いわゆる「稼げる大学」)が推進されてきた。このようなプロセスには、学長の権限の強化と学外者の関与の仕組みが並行し、教育・研究の担い手である教員の大学運営への関与は決定的に低下した。その帰結は、いわゆる「研究力」の低下によって集中的に表現される、「学術の中心」としての大学の危機である。このような経験に照らせば、法人化によって自由度が拡大して独立性が高まり、学術会議がよりよいものになるかのように想定する「中間報告」の認識はリアリティを欠き、根拠なく楽観的なものだと言わなければない(ちなみに座長は、国立大学の法人化は「どっちかというと失敗」だと述べている。しかし、「中間報告」にはこのような認識が反映している気配は見られない)。

5.法人化を既定の前提とすることのない議論の継続を

 以上のように、有識者懇談会においては、国の機関として存置することを前提とした2022年12月以降の内閣府案と内閣府が主導してまとめられた法人化案とが選択肢であるかのように扱われ、後者が望ましいとする結論が示された。

 しかし、国の機関として存置することを前提としたうえで、内閣府案とは異なる改革を構想することは可能であるはずである。現に学術会議は、「日本学術会議のよりよい役割発揮に向けて」にもとづいて、まさにそのような改革を追求してきた。したがって学術会議には、法人化に対する懸念を表明するだけではなく、学術会議の改革に対する自らの立場をより積極的・体系的に示すことが求められる。そのさい、①現行法のもとでも各期の、または中期的な方針とその実行という形で実現可能なことがら(社会とのコミュニケーションの強化など)、②そのさい予算の拡充が必要なことがら(発信力の強化など)、③必要があれば学術会議自身が制定する規則の改正によって対応可能なことがら(コオプテーションによる選考の具体的な手続など)、③議論の結果によっては現行法の改正が必要なことがら(更新なしの6年の任期や70歳定年制の見なおしなど)、④採用されるべきではないことがら(会員候補者の選考の自律性を損なうような仕組みなど)を改めて整理し、法人化論と噛み合った議論を可能にする必要がある。そのことによって、「中間報告」が描いた「現状をべースとした改善に甘んじる」怯懦な組織であるかのようなイメージを打ち破ることを期待したい。

 一方、法人化論については、これまで指摘してきたようなさまざまな問題があり、多くの点で具体的な制度設計は今後の検討に委ねられている。具体的な制度設計は、単なる細部の問題ではない。細部こそが全体の性格を規定し、その評価を左右することがあるからである。「財政基盤の充実」の見とおしもまったく不確かである。これらが明らかではない段階で、法人化を既定の前提とすることによって議論に枠を狭めることは適切ではない。「中間報告」はあくまで中間的なものとして扱い、それ自体をはば広い熟議の対象として扱うべきである。

6.科学に対する政府の態度もまた問われている

 最後に指摘しておきたいのは、問われているのは学術会議のあり方だけではない、ということである。

「中間報告」を最終的に採択するに先立ち、有識者会議の委員たちは、「改革に対する前向きなマインドセット」「使命感」「公共心」「意欲」を持った科学者が会員に選ばれることが重要であることをこもごも強調し、法人化によって「会員の質が落ちる」ことに対する危惧を表明した(学術会議の会員に選出されるとほとんどすべての研究者が引き受けたのは、総理大臣の任命が名誉あるポジションであることが一因であるから、法人化して総理大臣の任命というステータスがなくなると会員のモチベーション低下につながらないか、会員に選出されても引き受けない研究者が出てくるのではないかという、会員経験者の実感に合致するとは必ずしも言い難い懸念も示された)。

 しかし、学術会議会員の意欲云々について語るのならば、何よりも強調しなければならないのは、長年にわたって定着してきた「推薦どおりに任命する」という学術会議と任命権者との関係を内閣総理大臣が突然破壊し、それに対して納得のゆく説明がいまなお行なわれていないという事態こそが、直接の当事者である学術会議の現会員や事態を見守る多くの科学者の政府に対する信頼を毀損しているということである(2023年10月の半数改選にあたっては、学術会議の推薦どおりに第26・27期会員の任命が行なわれた。しかし、政府は「学識経験や国民生活への貢献などの観点から検討を進めた結果、適切な人選だ」としており、内閣総理大臣が人選の是非を実質的に判断できるという問題のある立場を変えていない)。2022年12月に始まる学術会議法改正をめぐる内閣府と学術会議とのやり取りにおいても、学術会議の総会等における質疑が繰り返されたとはいえ、学術会議側からの懸念にもかかわらず自らの構想の骨格を変えようとしない内閣府の態度は、信頼関係をさらに傷つけるものだった。したがっていま問われるのは、「中間報告」と大臣決定の扱い方そのものが、毀損された信頼関係を修復するものになるのか、それともいっそう溝を深めるものとなるのか、ということである。それこそが、現在の会員のみならず、学術会議のゆくえに関心をもち、議論を注視している多くの科学者―将来の会員候補たち―の「意欲」を左右することになるだろう。「中間報告」も大臣決定も、今後、法制化作業に進むことを前提として「学術会議の意見も聴きながら」と述べているが、これまでと同じような「説明はするが方針は変えない」というやり方がくり返されることがあってはならない。

 学術会議と政府との信頼関係という観点から見てもうひとつ指摘すべきなのは、学術会議の提言類に対する政府の態度である。科学的助言とは、助言する者と助言を受ける者との関係によって成り立っている。助言を行なう側のあり方(助言の内容や質)と助言を受ける側のあり方(助言に真摯に耳を傾ける態度)とが合わさることによって、科学的助言の有効性が決まるのである。したがって、学術会議の活動に不十分さがあればそれが問題にされ、改善が求められるのは当然であるが、同時に、助言を受ける側、とりわけ政府の科学・科学者に対する態度もまた問われなければならない(この問題を社会が目撃することとなった例のひとつが、新型コロナウィルスの感染症対策だった)。はたして、法人化すれば、学術会議の活動、とりわけ科学的助言の質が向上するというだけではなく、それを受け取る政府がこれまでよりも真摯に耳を傾けるようになるのだろうか? その保証はあるのだろうか? そのことこそが、学術会議に対する科学者たちの「モチベーション」を左右するのであり、またそれが明らかになってこそ、学術会議のあり方をめぐる議論が自分たちにとって決して無縁のものではないという市民社会の理解が期待されるのである。

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